浜口雄幸(はまぐちおさち)の似顔絵イラスト

第24代総理大臣、浜口首相とは

1929年、就任直後にニューヨーク株式が暴落し、世界恐慌が起こる。
対策として浜口雄幸は金輸出の解禁をする。結果、強烈なデフレに見舞われてしまう。 昭和恐慌と呼ばれる大不況であった。(次の首相の犬養毅は金輸出を禁止する)
とはいえ、緊縮政策といい思い切った施策を行う人で
ロンドン海軍軍縮会議を強行締結させる。そのため軍部の反発を買う。1930年に東京駅のホームで右翼に狙撃されてしまう。
当時外務大臣であった幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)がかけつけ、彼に対し、浜口は
「かかることは男子の本懐である」と名セリフを残す。
一命をとりとめたが、翌年それが原因で死亡する。
高知県出の東京帝大卒。
24代の加藤高明から28代の若槻礼次郎まで東京帝国大学出が続く。今はもう滅多に東大出京大出の首相はいない。頭の良い人はバカバカしくて目指さないのかもしれない。
29代の犬養が5・15事件で狙撃され 後、軍部の台頭で軍閥系の首相が増える。こんなに暗殺狙撃されるなら総理などなりたくはなかろう 。
今日、総理大臣がテレビなどのメディアを使い、声明や会見を行うのは当たり前の光景だが、この浜口が始めた手法である。総理としては初めて、ラジオを用いて国民に語り掛けた。
「今耐えれば経済はきっとよくなる」と民衆に訴えたのである。
多くの国民は信じて支持したが、結果は農村の子女の身売り頻発。深刻な貧困であった。
政府の「耐えていれば良くなる」声明は信じてはいけない。

浜口雄幸の特徴と容姿

大きな鼻と濃い三角の眉、厳しい目。

迫力のある風貌である。そのため、「ライオン宰相」と呼ばれた。
思い切った政策と料亭政治を嫌い、マスコミを使い民衆に直接語り掛ける手腕で、小泉純一郎との共通点を言う人も多い。

エピソード

名前の「雄幸」は”おさち”と読むのだが、理由がある。
親が 女の子を待望し女の名前しか用意しておらず、当て字でそうなったのだ。こんな強そうな男子が生まれ、総理にまでなるとは両親もさぞかし驚いたことだろう。
※親が酔っぱらって「幸雄」とつけるのを文字を逆向き、反対に届けたという別の説もある。酒豪の多い高知県らしいエピソードだ。
おさち、という可愛い名前に反発するかのごとく、めったに笑わない頑固な性格であったという。男子の本懐ともいえる数奇な生涯であった。